お盆。家族で和気藹々と精霊棚を設え、親族が集まりご先祖や懐かしい故人を偲ぶ。心荒む事が多く何かにつけせわしい現代こそ、心を優しくする仏教行事を大切にして、心を潤わせたいものです。
殊に、本年は終戦70年の節目。当院においても、謹んで戦没者慰霊供養をいたすところです。
さて、以前に靖国神社昇殿参拝をし、史料館を見学したことがあります。日々安穏な生活を頂ける我が身に些か申し訳なさが起こると同時に、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」の一節がおぼろげながら思い出され、胸が締め付けられる思いがしました。
しかしながら、それも所詮耳学問のようなもの。私を含め戦争を実感として、身につまされることがない人が増えているからこそ、宗門で提唱される「いのちに合掌」を肝に銘じたく思うところです。
ところで、戦争に限らず親が子供を失うことは、古今洋の東西を問わずありますが、大聖人の外護に尽力された南条家もその悲痛にありました。
主人を失い二人の子供を生きがいとしていた母が、16歳の次男まで亡くしました。大聖人は、人は死すものと教える身でありながら言葉にならないと嘆かれ、「老いたる母はとどまりて 若き子は去りぬなさけなかりける無常かな」と、共に涙を流されました。
又、東日本大震災においても、多数の園児を乗せたバスが津波にのみ込まれ、多くの子供達の尊い命が失われた事は、今だ記憶に新しいところであります。我が子を失った親の気持ちを察するに、私も子を持つ身の一人として、心痛にあまりある事でありました。
家族、親子の在り方を問わざるを得ない事件が起こる昨今。親子の縁を尊び、互いに敬い手を合わせる事を見直したいものです。そのためにも、子が親を思う思親閣であると同時に、親が子を思うお寺としても歩みたく存じます。
合掌
© 2001 Minobusan Kuonji and e-For inc.