甲州身延名所絵巻蓮聖人は、身延山にご入山になってから三年半ほど経った建治三年の冬より、深山の厳しい寒さが祟ったのか「はらのけ(痩せ病)」を煩ってしまいます。信徒の四條金吾や池上宗長より進上された薬によって一時的に回復することはあっても、月日を重ねるごとに病は徐々にお身体を蝕んでいきました。弘安五年九月八日、信徒らの勧めで常陸国の温泉へと湯治の旅に向かわれることになり、長年の間法華経の読誦と弟子信徒の育成に邁進された身延山を後になさるのです。九月十八日には武蔵国千束郷池上(現東京都大田区池上)に到着されていますが、体調が思わしくなかったのか、暫くその場に留まられました。同二十五日には最後の講義をなさり、十月十三日の辰の刻、多くの弟子信徒に惜しまれながら六十一年の御生涯を閉じられたのでした。翌十四日の戌の刻には日朗上人の手によって日蓮聖人のご遺体が棺に納められ、子の刻に荼毘に付されたといいます。日蓮聖人の「いづくにて死に候とも、墓をばみの本文読み上げ日
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