meishoemaki2505
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治八年(一八七五)一月十日午後六時、身延山西谷より出火した炎は瞬く間にして広がり、久遠寺に建立されていた伽藍の殆どを焼失させてしまいます。しかし、六年後には宗祖六百遠忌を控えていたため復興を急ぎ、その事業の一つとして計画されたのが祖師堂の再建です。再建の資材としてあてられたのは、江戸鼠山感応寺の本堂に使われていた木材です。感応寺とは、十一代将軍徳川家斉公の寄進によって建立された大寺院ですが、十二代将軍徳川家慶公の代に行わ甲  明れた、天保の改革により廃寺となります。以降、解体された木材は鎌倉妙本寺にて保管されていましたが、祖師堂再建にあたり、久遠寺が譲り受ける運びとなったのです。資材の運搬方法として陸路を使うことは現実的でなかったため水運に頼ることになります。鎌倉材木座より海に浮かべられた資材は相模湾を横断、伊豆半島を迂回して駿河湾を北上、富士川を遡上し身延山からほど近い大野で陸揚げ州身延名所絵巻本文読み上げ

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