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◆波木井の御影
藤原親安が南部実長の館で写したという日蓮聖人の画像。1281年、日蓮聖人60歳の姿であるといわれています。

身延山久遠寺の由緒 日蓮聖人の生涯 お題目を唱えるということ 「法華経」とは

久遠寺縁起

日蓮聖人の生涯 我、日本の柱とならん 我、日本の眼目とならん 我、日本の大船とならん

「法華経」の弘通に命をかけた、日蓮聖人の波瀾の人生をご紹介します。

予言的中

 この頃、北条家は執権の座をめぐっての内紛を起こしますが、これはまさに日蓮聖人が「立正安国論」のなかで自界叛逆難(国内の戦乱)として予言したとおりのことでした。日蓮聖人の予言的中によりその霊力に恐れをなした幕府は日蓮聖人に対する態度を一変させます。1273(文永10)年4月には、日蓮聖人は塚原の粗末な小屋から一谷(いちのさわ)の豪族である入道清久の屋敷へと移り住み、ここで「観心本尊抄」をお書きになります。

日蓮聖人は、この「観心本尊抄」で、日蓮教学信仰の中核である『三大秘法』、すなわち「本門の本尊」「本門の題目」「本門の戒壇」を初めてお示しになりました。日蓮聖人は「南無妙法蓮華経」というお題目こそ末法の正法で、このお題目を受持することによってお釈迦さまの救いに導き入られると説かれたのです。また、他宗でいうところの浄土ではなく、娑婆(しゃば)世界、つまり現実のこの世こそが「本門の本尊」、すなわちお釈迦さまがお住まいになる浄土であることも示されました。日蓮聖人は、3ヶ月後の7月8日、この本尊の原理にもとづいて、初めての大曼荼羅である「佐渡始顕の大曼荼羅本尊」を描き示されています。