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◆波木井の御影
藤原親安が南部実長の館で写したという日蓮聖人の画像。1281年、日蓮聖人60歳の姿であるといわれています。

身延山久遠寺の由緒 日蓮聖人の生涯 お題目を唱えるということ 「法華経」とは

久遠寺縁起

日蓮聖人の生涯 我、日本の柱とならん 我、日本の眼目とならん 我、日本の大船とならん

「法華経」の弘通に命をかけた、日蓮聖人の波瀾の人生をご紹介します。

佐渡での決意

 この龍口(りゅうこう)法難を奇跡的に逃れた日蓮聖人は同年10月、佐渡へと送られます。厳冬の佐渡で日蓮聖人にあてがわれたのは死人を捨てる塚原の三昧堂でしたが、ここは「上は板間あわず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆる事なし」と、後に日蓮聖人が「種々御振舞御書」に書き記すとおりのありさまでした。想像を絶する凍えや飢えと戦いながら日蓮聖人は「一期(いちご)の大事を記す」との決意で、「開目抄」の執筆を始め、翌1272(文永9)年2月にはこれを完成させます。日蓮聖人の相次ぐ法難、迫害の連続であったこれまでの人生は、「法華経」の持経者は多くの災難に見舞われるという、お釈迦さまが「法華経」のなかでされた予言を実証するものにほかなりませんでした。日蓮聖人はこのことにより日蓮聖人自らこそ、お釈迦さまより「法華経」の弘通を直接委ねられた本化上行菩薩(ほんげじょうぎょうぼさつ)であるという自覚を強めました。「開目抄」の中で日蓮聖人は『我、日本の柱とならん。我、日本の眼目とならん。我、日本の大船とならん。』という「三大誓願」を記されて、「詮ずるところは天も捨てたまえ、諸難にも遭え、身命を期せん」と、たとえ諸天のご加護がなくとも末法の日本を救うため「法華経」の弘通に一命をささげる決意をされています。