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◆波木井の御影
藤原親安が南部実長の館で写したという日蓮聖人の画像。1281年、日蓮聖人60歳の姿であるといわれています。

身延山久遠寺の由緒 日蓮聖人の生涯 お題目を唱えるということ 「法華経」とは

久遠寺縁起

日蓮聖人の生涯 我、日本の柱とならん 我、日本の眼目とならん 我、日本の大船とならん

「法華経」の弘通に命をかけた、日蓮聖人の波瀾の人生をご紹介します。

度重なる法難

 ところが日蓮聖人は、これをこころよく思わなかった幕府についに捕らえられ、1261(弘長元)年5月12日、伊豆の国(現在の静岡県)伊東へ流罪とされてしまいます。これが四大法難の二つ目、伊豆法難です。幸いにも川奈に住む漁師夫妻にかくまわれ命をつないだ日蓮聖人は、難病に苦しむ地頭伊東八郎左衛門をご祈祷によって全快させました。これにより伊東一門は法華経に帰依することとなり、日蓮聖人は流罪がとかれ鎌倉へ戻る1263(弘長3)年の2月まで、伊東氏の外護を受けながらの配所生活を送りました。この地にとどまった約2年の間に日蓮聖人は「教機時国鈔」(きょうきじこくしょう)を著され、そのなかで、法華経こそが末法の世を救うための経典であることを「五義(五綱の教判)」によって論証されました。

鎌倉に戻った日蓮聖人は、翌1264(文永元)年、母の病気の回復を祈るため安房の国へと戻られました。病が小康を見たため日蓮聖人は再び安房の国での布教活動を開始しました。ところが同年11月11日の夕刻、檀越(だんのつ)の工藤吉隆の招きに応じ工藤邸に向かう途上、東条郷の松原大路(現在の千葉県鴨川市)にさしかかったところで、地頭東条景信の襲撃を受けます。もとより日蓮聖人をこころよく思わなかった景信は、自らの宗派を否定する日蓮聖人を一気に殺害しようと凶行にでたのです。この小松原法難で日蓮聖人は弟子の鏡忍房日暁と、急を聞いて駆けつけた工藤吉隆の二人を失います。また、弟子の乗観房、長英房の二人も重傷を負い、日蓮聖人自身も眉間を斬られ、左腕を折られましたが、幸いにも一命をとりとめました。後に吉隆の遺子は出家して日蓮聖人の弟子となり長栄房日隆と号し、父吉隆と鏡忍房の菩提を弔うためにこの法難の地に妙隆山鏡忍寺を建立します。日隆は後年、土地の名前から山号を松原山、土地の名前を現在の小松原へと変更しました。