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◆波木井の御影
藤原親安が南部実長の館で写したという日蓮聖人の画像。1281年、日蓮聖人60歳の姿であるといわれています。

身延山久遠寺の由緒 日蓮聖人の生涯 お題目を唱えるということ 「法華経」とは

久遠寺縁起

日蓮聖人の生涯 我、日本の柱とならん 我、日本の眼目とならん 我、日本の大船とならん

「法華経」の弘通に命をかけた、日蓮聖人の波瀾の人生をご紹介します。

末法と諫言

 これらの災いは、誤った仏法が広まってしまったことによる天の諫めであることを直感された日蓮聖人は、経文によってそれを証明しようと駿河の国(現在の静岡県)の岩本実相寺(じっそうじ)の経蔵にこもり、一切経(いっさいきょう)を調べなおされました。そして二年後の1260(文応元)年7月、時の実力者、前執権北条時頼に、諫暁の書として「邪宗を信じるがために、このような災害がおこる。これを改めなければ、経典にあるように自界叛逆難(国内の戦乱)と他国侵逼難(外国の侵略)に見舞われる。他宗を捨て、正しい仏法である『法華経』に帰依すれば、全ての人が末法の世から救われる」ということを説いた「立正安国論」を献上されました。

しかし、この諫言は幕府に受け入れられることはなく、それどころか他宗の激しい怒りをかってしまい、同年8月27日には、松葉谷の草庵を焼き討ちされてしまいます。四大法難の最初である、この松葉谷法難を辛うじて逃れた日蓮聖人は、ひとまず下総の国(現在の千葉県)の富木常忍(ときじょうにん)のところへ身を寄せますが、すぐに鎌倉に戻り、以前にも増して激しく他宗を破折(はしゃく)しつづけました。