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◆波木井の御影
藤原親安が南部実長の館で写したという日蓮聖人の画像。1281年、日蓮聖人60歳の姿であるといわれています。

身延山久遠寺の由緒 日蓮聖人の生涯 お題目を唱えるということ 「法華経」とは

久遠寺縁起

日蓮聖人の生涯 我、日本の柱とならん 我、日本の眼目とならん 我、日本の大船とならん

「法華経」の弘通に命をかけた、日蓮聖人の波瀾の人生をご紹介します。

受難の幕開け

 しかし、これはまた日蓮聖人の生涯における受難の幕開けでもありました。日蓮聖人は、末法の世を救いうるのは「法華経」だけであるとし、他宗を強烈に批判されました。このため、他宗派の人々と激しく対立し、その結果「少々の難は数知れず、大難四箇度なり」と日蓮聖人が晩年の著書の中で自ら語られるように、その生涯は迫害と受難の連続でした。清澄寺で最初の説法を行った日蓮聖人でしたが、他宗の熱心な信者だった地頭東条景信の怒りをかい、あやうく捕らえられるところでした。しかし、鎌倉に難を逃れ、松葉谷(まつばがやつ)に草庵を構え、ここで法華経の弘通(ぐづう)を始めました。

この頃から、世の中では天災地変が続出し、まさに末法の世の様相を呈していました。とりわけ1256(建長8)年からの5年間には疫病・飢饉・暴風雨・大火災などの災害が相次ぎ、なかでも1257(正嘉元)年8月23日に鎌倉を襲った大地震では数万人もの死者が出たといわれ、路上に死体が散乱するなど阿鼻叫喚の地獄絵を見るようだったといいます。